「シンデレラ・サマー」や「ふたりの愛ランド」などのヒット曲で知られるシンガーソングライターの石川優子さん。
1990年7月のファイナルコンサートをもって、正式に音楽活動を引退しました。
引退した理由はどのようなものだったのでしょう
そこで今回は、
1・石川優子の引退理由3選と現在
2・石川優子の難病の噂や夫と子供
3・石川優子とチャゲとの仲や昔の曲
について調べてみたいと思います。
石川優子の引退理由3選と現在!
ここからは、石川優子さんが引退するに至った理由について探ってみたいと思います。
理由1・ニューヨークに留学したかった
石川優子さんは1990年7月のファイナルコンサートを最後に引退し、その後3年間ニューヨークに留学しました。もともと海外で学ぶ夢があったことが引退の大きな理由の一つです。
昔から夢見ていたニューヨークの街角での自由な暮らし、例えば茶色い紙袋に野菜やフランスパンを入れてリンゴをかじりながら歩くような生活に憧れていたのだそう。
理由2・「本当の自分を見失う」という危機感
音楽以外の人間関係や日常生活とのバランスが失われ、「アーティスト石川優子」だけが自分のすべてになってしまう状況で、音楽活動の成果や周囲からの評価だけで自分自身をはかるようになり、”心の余白”や理想像を問い直せなくなったのだとか。
音楽活動が最優先となり、24時間365日、そのことばかり考える毎日が続き「本当の自分を見失う危機感を抱いた」ことが引退を考えた理由の一つだったそうです。
理由3・原点に戻りたいという思い
音楽を職業として続けることに幸福も感じてはいたものの、”好きなことを純粋な気持ちで楽しんでいた自分”をもう一度見つめ直したかったといいます。
「自分はなぜ音楽を始めたのか」「本当に大切なものは何か」を、騒がしい舞台や日常から離れて自分の内面に問い直すことが、精神的な原点回帰となったのでしょう。
石川優子の現在は?
現在66歳の石川優子さんは、目立った本格的な歌手活動の再開はないものの、節目ごとに限定的なライブ出演や音楽活動を続けています。
2025年1月 ”チャゲ”との共演ライブに出演
東京・Billboard Live TOKYOでの公演で”チャゲ”さんと「ふたりの愛ランド」などを歌い、ファンを大いに感動させました。
過去のポプコン関連やイベントゲスト出演
2016年以降、ヤマハ主催の「僕らのポプコンエイジ」など、同窓会的なイベントに断続的に出演。2021年までは連続参加が確認されています。
ラジオ・音楽番組のゲスト
2021年10月にはNHKの音楽特番『歌える! J-PO 黄金のヒットパレード決定版!』に出演。
2021年12月の「NHKFM Radio ’80 ’90」など音楽番組でも姿を見せており、今後も機会によってゲスト出演の可能性が示唆されています。
石川優子さんは「引退=完全隠遁」ではなく、音楽との距離を自分らしく保ちながら、必要な時だけ輝くアーティストスタンスで活動しています。
石川優子の難病の噂や夫と子供
ここからは、難病の噂が流れている理由や夫と子供についても調べてみたいと思います。
難病説が流れた理由は?
石川優子さんに関して「難病」という信憑性のある報道や公式な発表は確認されていません。
にもかかわらず、難病説が流れた理由はなぜだったのでしょうか?探ってみました。
石川優子さんの同姓同名の方のXで、体調不良の様子が綴られていたから。
YouTubeやSNSなどで、「石川優子が難病を抱えている」「病気で引退した」などのタイトルやサムネイルが拡散されたから。
上記のような理由で、石川優子さんが難病をかかえているかのような噂を流されてしまったようですが、実際は今もお元気に活動されています。
石川優子の夫は?
石川優子さんの夫は、1994年に結婚した元マネージャーの男性です。
結婚後、本名を「田中優子」としており、夫の姓が「田中」であることが分かっています。
交際や結婚の経緯やお名前、顔写真などの詳細なプロフィールは公表されていません。一般の方ということもあり、プライバシー保護のためでしょう。
芸能界での熱愛やゴシップ報道は一切なく、落ち着いた結婚生活を送ってきたとされています。
夫は元マネージャーという立場から、石川優子さんの音楽活動や一時的な歌手復帰に理解を示し、サポートしているとみられています。
石川優子の子供は?
石川優子さんの子供は、1996年に誕生した長男が1人です。
2025年時点ではおよそ29歳となっています。
石川優子さんは引退後、結婚して家庭生活を大切にしながら子育てを行い、息子の成長を見守ってきたと思われます。
息子についても、一般人であることやプライバシー保護の観点から、名前・顔写真・学歴や職業など、詳細なプロフィールは一切公表されていません。
実家はどこ?
石川優子さんの実家は大阪府大東市にあります。
学歴は大阪府立四條畷高等学校、大手前女子短期大学を卒業。
小学校4年生の時に守口市少年少女合唱団に入団、中学3年生でギターを始め、高校時代は女性デュオ「スリーピー」、高校3年から短大時代にかけてはバンド「ファンタスティック」に参加し音楽活動を開始しました。
石川優子とチャゲの仲や昔の曲
ここからは、石川優子さんとチャゲさんの仲はいいのかや、昔の曲などについて調べてみました。
石川優子とチャゲの仲は今も良好
石川優子さんとチャゲさんは、1980年代からの長い友情と音楽的な繋がりを持つ盟友として知られています。
二人の仲は非常に良好で、特に代表曲「ふたりの愛ランド」でのデュエットがヒットし、その後も交流を続けています。
石川優子さんの引退コンサートにもチャゲさんが出演し、再び「ふたりの愛ランド」をデュエットしました。
2009年にはChageのアルバム『Many Happy Returns』で「ふたりの愛ランド2009」に石川優子さんが参加し、久々に共演しています。
2025年1月に東京のBillboard Liveで行われたライブ「Chage Billboard Live 66 to 67:Echoes of Friendship with Yuko Ishikawa」では、盟友として特別ゲストに招かれ、「シンデレラサマー」「ふたりの愛ランド」などを共に披露。
これは約40年来の友情を象徴する貴重な共演となりました。
「沈丁花」でデビュー
石川優子さんのデビュー曲「沈丁花(じんちょうげ)」から、代表曲を時系列で見ていきたいと思います。
1979年3月:「沈丁花」(デビュー曲)
1979年11月:「クリスタル・モーニング」
1980年7月:「素敵なモーニング」
1981年3月:「シンデレラ・サマー」(最大ヒット、オリコン10位)
1981年9月:「恋のトラブルメーカー」
1981年12月:「真夜中のラブコール」
1984年:「ふたりの愛ランド」(石川優子とチャゲ名義、JALキャンペーンソング)
1985年4月:「春でも夏でもない季節」
補足・エピソード
- 「シンデレラ・サマー」は1981年JAL沖縄キャンペーンソングであり、ザ・ベストテンにも7週連続登場。
- 「ふたりの愛ランド」はチャゲとのデュエットで、11週連続ザ・ベストテン入りするなど大ヒットし、二人の名コンビとして記憶されています。
石川優子のアルバム
石川優子さんが発売したアルバムを調べてみました。
オリジナル・アルバム
優子 ときめくころ(1979年10月25日)
YUKO LOVE FEELING(1980年5月1日)
愛を振り向かないで(1986年4月20日)
ニール・サイモンも読みかけのままで(1986年9月21日)
ヴィーナスは泣かない(1987年8月26日)
ドリーミー・ドリーマー(1988年4月6日)
約束のアルカディア(1988年10月26日)
Silent Melody(1989年9月6日)
ベスト・コンピレーション
YUKO THE BEST(1981年3月5日)
BEST ONE’82 石川優子(1981年10月21日)
Collections(1984年8月5日)
THE COMPLETE SINGLES(1986年11月21日)
REMEMBER(1987年12月25日)
Hello, Holy Night(1988年11月26日)
SINGLE COLLECTION(1985-1988)「春でも夏でもない季節」(1989年8月9日)
SINGLE COLLECTION(1981-1984)「ふたりの愛ランド」(1989年11月8日)
SINGLE COLLECTION(1979-1981)「レット・ミー・フライ」(1990年5月23日)
石川優子 ファイナルコンサート「愛を眠らせないで」(1990年8月29日)
石川優子の昔がかわいい
石川優子さんは実力派歌手でありながら、えくぼのかわいいルックスで、アイドルではないのにブロマイドの売り上げが3位になったこともあるそう。
そのかわいらしさから、週刊誌のグラビアを飾るなどアイドル的な売り出し方に戸惑いもあったとか。
ヤマハのポプコン出身ながら、そのルックスゆえに売り出し方はアイドルのそのもののノリ。全国にキャンペーンに出かけたり、週刊誌のグラビアに出たりの“芸能活動”に石川は戸惑った。「最初のスタート地点で、私の持ち味と歌手・石川優子に課されたキャラクターにギャップがありすぎた」。
引用:SponichiAnnex
しかし、そのギャップを払拭する突破口となったのが、デビュー3年目での大ヒット曲となった「シンデレラサマー」でした。
作詞・作曲を手掛け、自ら歌ってヒットチャートに食い込むことで、そのギャップを払拭する突破口となったのが、レコード売り上げ36万枚を記録したこの曲。81年6月18日、TBS「ザ・ベストテン」に10位で初登場。
引用:SponichiAnnex
毎週木曜日は大阪でラジオの仕事があり、スタジオから中継となったが、歌いながら感激の涙を流したのは、ラジオ番組のスタッフ、出演者の後押しだけでなく、ひとりの歌い手として認められた実感があったからだった。
アイドルではなく、シンガーソングライターとしての実力を世に広めることができた一曲になったようです。
まとめ
一度歌手活動を引退し、結婚・出産を経て、節目ごとの活動を続ける石川優子さん。
これからも「本当の自分を見失わない」ように自身のペースを保ちつつ、ファンの前に元気な姿を見せてほしいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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